心と身体の在り方

最近、定期的に「座禅会」というお寺で行っている会に参加している。

そこでは、禅を通して人の「心」と「身体」の在り方について教えてくれる。

端的に説明すると、人が本来持っている、無理のない姿勢と自由な心を取り戻そうという感じだ。

 

僕もそうだが、ほとんどの人は「こうしないといけない」「こうするべきだ」などの自分ルールみたいなものを多く抱えている。

もちろん、生きていくうえで、社会的なルールは守る必要はあるが、ここで言う自分ルールとは、自分の内側のルールだ。

頑張らないといけない、姿勢を正さないといけない、瞑想中は無にならないといけない、とか。

 

お坊さん曰く、このように自身を縛る行為は、何の意味も持たないという。

 

しかも、その縛りが強いほど、人は「高慢な態度」になるそうだ。

 

たしかに、自分の中の「こうあるべきだ」という考えと、全然違う意見を言っている人がいると、

「この人、全然わかってないな」

と、上から目線になる自分は知っている。

 

そして、加えてこのような事も教えてくれた。

 

もし、目の前の人がどんな意見を持っていても、自分の中にある自由意志を忘れないようにして下さい。

その人が何を言っても、あなたは自由です。

もし、その人の意見に耐えられなかったら、その場から離れればいい。

 

 

正直、自由意志を持つという部分は、いまいち腑に落とせなかったが、

目の前にいる人が何を言おうと、自分も相手も尊重する在り方は持ちたいなとは思う。

 

ちなみに、この座禅会では、身体の在り方もかなり教えてくれる。

人間本来持っている身体のバネを使えとのことだが、これもなかなか難しい。

意識している時点で自然じゃないらしい。

そこが、めっちゃ難しい。笑

 

でも、なんとなくわかったのは、心もそうだが、身体も出来るだけ抵抗のない自然な状態を目指すのがリラックスして気持ちいんだなってこと。

心と体が繋がってると考えれば、どちらも同じ在り方が自然なのかもしれない。

 

そして、ここで教えてくれるのは、技術ではなくて、在り方なので、

出来るだけ、普段から実践しないと意味がないとのこと。

 

なので、最近は、この座禅会で教えてもらった、身体の使い方を意識して生活しています。

 

教えてもらった身体の感覚を意識して生活していると、心も前より自由になった気もする。

瞑想に対する考え方も少し変わってきた。

 

人間本来持っている、心と身体の在り方。

おそらく、マスターは出来るとか出来ないとかの次元じゃない在り方の事なので、かなり難しい世界ではあるが、なんでも目指すプロセスは楽しいです。

禅の在り方も、成長を楽しみながら実践できたらなと思う今日この頃です。

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